沖縄の宮古島に引っ越しをするにあたり、「地域社会になじめるのか」という問題を懸念する人は多いのではないでしょうか。
沖縄には「ナイチャー」という「本土の人間」を意味する言葉があり、そこにはしばしば差別的なニュアンスが含まれていると言われています。
反対に沖縄県人のことは「ウチナーンチュ」と呼び、そこには「ナイチャー」との明確な線引きがあることは間違いありません。
(といっても、宮古島ではあまり「ウチナーンチュ」は聞きません。宮古島の人は那覇のある本島を「沖縄」と呼ぶので、宮古島と沖縄間にもまた「差」があるのですが、それはまた別のお話として考察します)
では、実際に、移住者は差別的な扱いを受けたり、地域社会に溶け込みにくかったりするのでしょうか。そしてそれは、他の地域よりも、沖縄、そして宮古島では、いっそう難しいものなのでしょうか。
私はまだ移住からそれほどの年月が経っているわけではないですが、今のところの回答としては、実にシンプルです。
それは、沖縄だから、宮古島だから、ということはそれほど大きな関係はなく、結局は自分の考え方やふるまい次第ではないか、ということです。
私も、これまでの生活の中で「ナイチャーは嫌い」「だからナイチャーはだめだ」という人を目にしたこともありますが、それと同じか上回る回数で、「宮古島に移住してくれてありがとう」「いいところだからずっと住んでね」と言ってくれる人に出会っています。
そしてそれは、どこに住んでいようとも、「合う人もいれば合わない人も居る」「いい奴も居れば嫌な奴もいる」ということと、何も変わらないなあと感じています。
つまり、どこの地域であろうと、その地域の在り方を尊重しながら馴染んでいく気持ちがあれば受け入れられる可能性は高まるし、そうでなければ孤立してしまうのではないでしょうか。
最後に、興味深い記事を見つけたので紹介します。
宮古島出身の拓殖大学の学生である平良さんの卒業論文が、最優秀論文賞を獲得したという記事ですが、その内容が移住者と宮古島住人のかかわり方に関するものになっています。
残念ながら、タイトル検索では論文全体を読むことができなかったのですが、記事の中で「ナイチャー」に関する面白い記述があったので引用します。
平良さんは、「ナイチャー」という言葉の印象についても調査。インタビューした地元の3人は「排他的」と捉えているのに対し、移住者は「アメリカ人をアメリカンというような感覚」などと把握し「面白い」と認識している人が多かったことを知った平良さんは「小さい時から『ナイチャー』という言葉が排他的な感覚で自分の中に組み込まれている人がいるとすれば、それを捨てる時期ではないだろうか」と提案した。
宮古島の人も、また変わろうとしていることがよくわかります。若い世代から、このような提案が出てくることはとてもうれしいですね。
ゆくゆくは、愛のある意味で「ナイチャー」が使われる時代が来るかもしれません。